古都奈良の文化財誕生の謎を解く 古都奈良の秘話に迫る
古都京都の文化財 登録されている十七の神社仏閣 日本独自の文化形成・国風文化
屋久島の歴史と共に息づく生命
山岳地帯で育まれた合理的な暮らし
戦乱の中に刻まれた歴史と工夫
合掌造りが日本の一般的な民家と大きく違うところは、屋根裏(小屋内)を積極的に作業場として利用しているところです。幕末から昭和初期にかけ白川村では養蚕業が村の人々を支える基盤産業でした。屋根裏の大空間を有効活用するため小屋内を2~4層に分け、蚕の飼育場として使用していました。合掌造りは、一階の上はすべて屋根であり、梁に「だほ」という木を立てそして、窪みをつける。様々の工程を経て、屋根の骨組みが形作られると、茅が内側に入り込まないように、すのこはがかけられ、その上から茅を葺いていく。屋根の妻の部分はほぼ正三角形になっているから、片屋根の広さは建坪に等しい。かなり大きい屋根を片面一日、両面を約二日で 葺く。かつては「結(ゆい)」という組織が存在し村人総出でお互いの屋根葺きをしたが、人口の減った現在では主に森林組合に委ねられることが多い。そして、日本全国はもとより海外からも ボランティアが集まり総がかりで作業がお行われる。 葺き替えは約30~40年に一度の割合で必要だ。従って59棟の合掌造りがある白川郷では、毎年1~2棟の葺き替えが行われる計算になる。 1階部分になっている「おえ」と呼ばれる場所には「囲炉裏」切ってある。囲炉裏の裏には、食堂、居間、応接間などとして利用される。合掌造りには必ず囲炉裏がある。これが各家々には最重要で囲炉裏では夏でも火が炊かれその煙で、結び付けている縄や梁そして屋根の茅にも煤が真っ黒につく。 この結果、虫除け、腐敗防止など様々な効果に結びつく。そのため、何十年もの耐久性を持たせる。人が住んでいない合掌造りでは火を炊かない為、すぐにあらゆるところが朽ち果ててしまう。 主に、この地域では養蚕が盛んで生活を営んでいた。一階より上では行われていて床はすのこ状態になっているので、下から上ってくる煙が温度を上げ、夏には屋根の妻の障子を開ければ風も通る。この形にはやはり養蚕が大きく関わっており、妻の開口部で風と光を取り込むことで蚕の飼育に適した環境が作り出されています。 生活の機能が家の形となっているところに合掌造りの美しさを感じることができます。その他の産業としては、塩硝をしていた家もある。塩硝というのは、黒色火薬の原料となるもので、近世では鉄砲に欠かせない最高の軍需物資ともいえます。特に五個山では、各家々で作られていた。材料は、稗殻・たばこ殻・蕎麦殻・麻の葉・ヨモギ・サク(きつねうど)ムラダチ(あぶらちゃん)などの雑草に水気のない畑土に蚕の糞を混ぜて作りました。そして当時、 幕府の直轄領だっため、徳川幕府にできあがった塩硝を納めていた。かつて、白川、五個山あたりでは一つの家に数十人の家族が一緒に暮らしていた。山に囲まれたこの地域では、平地が少なく分家をして家を建てるのが難しく一族が寄り添って暮らしていたが、ほとんどの正業を室内で行う為多くの労働力を 必要としていた為好都合だった。そして、長い冬の季節たとえ外に出られなくても大勢で住んでいれば暮らしていけるという利点もある。 徒歩だけが唯一の交通手段で、ましてや冬には通行が遮断されるこの地には独特の文化が育まれた。その一つに「こきりこ節」がある。白川神社で行われるこの祭りの際に、五穀豊穣を願って”びんざさら”と呼ばれる檜板でできた楽器を使って踊る。 白川郷では、和田家や妙善事、野外博物館合掌造り民家園などが、五個山では、相倉民俗館、400年の歴史を持つ村上家など、そして、明治の末期まで35人の大家族だった岩瀬家など、これらの公開施設では実際に合掌造りの内部に入り、建築の詳細を見学することができる。先祖から受け継いだ伝統や知識を垣間見ることができる