古都奈良の文化財誕生の謎を解く 古都奈良の秘話に迫る
古都京都の文化財 登録されている十七の神社仏閣 日本独自の文化形成・国風文化
屋久島の歴史と共に息づく生命
山岳地帯で育まれた合理的な暮らし
戦乱の中に刻まれた歴史と工夫
聖地・高野山を歩く 1200年前に弘法大師空海が開いた真言密教の聖地。海抜900メートルの山上に広がる宗教都市の魅力を紹介。
高野山とは、和歌山県伊都郡高野町にある標高約1000m前後の山々の総称で、実際に高野山という山は存在しない。平安時代の819年に真言宗がこの地で開かれた。弘法大使空海が何故に高野山を選んだのか。それには空海の歴史を紐解く必要がある。
空海は774年に讃岐国(香川県)で生まれ、真魚(まお)と名付けられた。幼少期から勤勉・明朗で、19歳から大学での勉学に飽き足らず、世のため人のために一生を捧げようとして、阿波(徳島県)の大瀧ガ嶽(たいりゅうがだけ)、土佐(高知県)の室戸崎(もろとのさき)などの霊所を求めて修行を続けた。20歳のとき、親戚の反対を押し切って出家することを決心。そして、その後、名を空海と改めた。唐(中国)に名僧がいると聞いた空海は31歳のとき留学層として遣唐使の一行と共に唐へ出航した。唐の都・長安に着くと、真言密教を継いだ第七祖で、唐では右に並ぶ者のない名僧だった恵果和尚(けいかわじょう)に会いに行った。何事にも優秀な功績を残した空海は恵果和尚に認められ、真言密教の第八祖となった。805年12月に恵果和尚は「真言密教の教えはすべて授けた。早く日本に帰って真言のみ法(のり)を広めよ」と遺言を残し、息を引き取った。
翌年の806年、空海は現在の明州から日本に帰ることになった。伝説では、この日本帰国の前に、明州の浜辺に立ち「私が受け継いだ、教法を広めるのに良い土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、恵果和尚からもらった密教法具「三鈷(さんこ)」を、空中に投げ上げた。すると、三鈷は雲にのって、日本に向かって飛んでいった。そして、後に空海はこの三鈷が高野山の松の枝に留まっているのを発見し、三鈷が導いたこの地に真言密教の道場を開いたと言われている。
では、「真言密教」とはいったい何なのだろうか。 密教とは「仏さまの秘密の教えを明らかにした教え」という意味だが、この教えはお釈迦さま在世時代のインドにすでに存在し、主に「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」=「人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になる」ということを説いたもので、一般的には「仏様のような行いをし、仏様のような心で過ごせば、争いもない平和な世の中になる。」という解釈で日本各地に広まって行った。
その信仰は一般庶民だけでなく、皇族や将軍などに強く影響を及ぼした。事実、日本歴史の上で、神社仏閣は戦乱のたびに被害をこうむってきたが、高野山だけは山奥に在ると言う事と弘法大使(空海)信仰で、むしろ、歴代の天皇や為政者は進んでこの地を庇護し、菩提所を造っていった。その証拠に奥の院(写真一番上)と呼ばれる場所には、豊臣秀吉、織田信長、明智光秀、伊達政宗、石田三成、徳川家光などそうそうたる顔ぶれの歴史人物の墓が存在する。
戦乱には逃れたものの、天災によって傷つけられてしまったのが壇上伽藍(だんじょうがらん)の建物の数々だ。落雷などにより火災のせいで消失してしまった物も多く、特に根本大塔(こんぽんだいとう/写真二番目)は、そのひとつで昭和12年に過去の記録を本に再建された。壇上伽藍とは、もともと弘法大使が受け継いだ真言密教の思想を具現化した聖地で、各建造物の中では胎蔵大日如来などの真言密教の重要品が安置されている。
「生きながらにして仏になれる」、そう説いた空海。その教えを信じ、この地を訪れた人々は数知れず。そんな人々を魅了した空海の足跡が残り、また空海の元で有名無名関係無く人々が安らかに眠る、聖なる地「高野山」を歩くことによって、仏との距離がさらに密になるはずだろう。
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